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桑原茂一が京都にいる、ということ。



桑原茂一さんを京都で取材しました。


中学時代に「ニューミュージックネットワーク」や「スネークマンショー」の洗礼を受け、「dictionary」に感化され続けた僕にとって、茂一さんが突然京都に居を移したって事実に興味津々で、どうして茂一さん、京都に来たんだろう、今、何を考えておられるのだろう、茂一さんに若い頃の話も聞いてみたいと、全くノープランで「お会いしたい」と電話しました。平安神宮の大鳥居の前で待ち合わせて、茂一さんが「ご贔屓」というカフェのラウンジ・テーブルをお借りして話を聞かせてもらいました。

(取材:谷口純弘 撮影:池田穂州 協力;Lignum、松田匡弘)


俺がやりたかったのは「俵屋」だったんだ、って気づいた。


俺がなんで京都にいるかって?


答えが分かったんだす。

麿が京都に憧れた理由は、300年の歴史を受け継ぐ、京都最古の旅館と言われている「俵屋」に、私を虜にした美の精神がございました。


ある眠れない夜の事でございます。虎の刻を刻む携帯の眩しさにイラっとするも、すかさず、あの、もっくん(本木 雅弘)が案内役のドキュメント映像があらわれ、これだ!って気がついたのでございます。


― NHK BSプレミアムの特集のことですね。


その通りです。


と、いうのも30代の頃俵屋に一泊したことがあって、その時の強烈な思い出が、そのドキュメントで蘇ってくるもんやから、例えばどすなぁ、「俵屋旅館」の玄関入った瞬間ドーンと鎮座する国宝級屏風から、め~に入るしつらえにすべて意味があると思いますのや。せやから、300年の歴史を軸にしながらも、あらゆる文化を跨ぎ選別した絶対の美がそこかしこに潜んでいる。しかも、それらの美へ奉仕される人たちの立ち振る舞いは、まるで僧院の尼さんのごとく至福の微笑みを浮かべておいでなのでごじゃります。

例えば、お庭を手入れする男衆をご覧いただきたい。普通なら箒で掃き清めるところを、素手で草花の埃を拭っている。これこそ正に命を宿すものへの愛に他ありません。つまり、掃除する所作がまるで絵を描くように美しいのです。


ああ、これや、これやったんや。わちきを京都へ誘ったんは。30代で初めて知った京都への憧れが、虎の刻に悟った。いうてますのや。しかも拙者の干支が寅年だったとは、お釈迦様でも気がつくまい。



さて、日本初のクラブ・活動を始めた1988年頃の京都のイメージは私の中では修学旅行体験のままだから、ロンドンからJazz で踊る!Jazz Defectorsを招聘したときも、外タレは京都にスピリチュアルな憧れがあって、当然私は無知蒙昧だから、仕方ないので駅前の黒塗りのタクシーの運転手さんに頼んでガイドしてもらって京都の寺探索。慣れない英語で疲れ果て、「運転手さん、もう少し地味な神社ありませんか?」で、忘れようにも思い出せない「枯れた庭」に遭遇した瞬間「人生っていかに欲望をセーブするかなんだ!」って、遅ればせながら覚醒したのでございます。


それはさっきも言ったように京都で言えば「俵屋」てことになるんだ。目指せ俵屋。笑。行ったことある?俵屋。1度泊まったほうがいいよ。1泊10万するけれど得られる価値はそれ以上のものがあるよ。10万のジャケット買うより100倍意味あるね。人の力がどれだけすごいかってことと、歴史を繋いできた見えない何かがあるんですよ。あそこはそういう空間なんですよ。



「ローリングストーン」から転がりはじめた。


えっ? 僕の若い頃の話が聞きたいの?


そこまでいうなら、僕の青春を話そうか。


ズバリ言うなら、ハタチの頃に日本語版「ローリング・ストーン誌」に関わらせてもらったことかな。

アメリカのベトナム戦争の時代に、ジョン・レノンが兵隊姿で表紙になった戦争反対を訴えるフリーペーパーのことで、サンフランシスコから始まったニュー・ジャーナリズム運動の狼煙だよね。ロックは今のような伝統芸能ではなく、反政府の表明であり、命懸けの反対運動のエネルギーでもあったから、カウンターと呼ばれたんだよね。分かりやすくうがったアイガッタいうなら、もうあれは革命のテーマソングだよね。ロック=命 そんな青春時代だからアメリカのカウンター・カルチャー・マガジンに関わってなければ今の自分はないだろうと思うね。


「Rolling stone gather no moss」


まさにこの格言通り、転がる石には苔は生えない。それが僕の人生なんじゃないかな。



1969年、19歳でスカウトされ西麻布のDJバーを任されました。

客にレコード会社のディレクターが多くて、彼等がサンプル盤を回してくれてたので、日本で発売される洋楽のほとんどを聴いてたと思う。


当時は、今と違って、個人に情報が入って来ないから、洋楽担当ディレクターは誰もが捨て身でプロモーションしていて、例えば「TREX」を日本で売るなら、ディレクター自らTREXと同じファッションを見に纏いTREX本人になりきってプロモーションするとか(笑)だから、ソニーにはボブ•ディランに乗り移ったディレクターがいたり、どのレコード会社にも、アーティストそっくりさんが居て競い合っていた。それぐらい洋楽を日本でセールスすることの難しさがあった。


有栖川公園の近くの隠れ家的バー「サーカス」には、そんな強者が集まっていた。19歳だった私は、建築家倉俣史朗のその真っ白な地下の箱の隅で小さくなって聴き耳を立てていた。



この真っ白い箱は、1997年頃 桑原茂一が制作した。アートと称してもさほど間違いではない作品。「SOUND OF THE ROOM」別名「ホワイト・キューブ」。


真っ白の箱を開けると空っぽ。


あれ?これは何? が、テーマの作品で、じっくり探ると箱の隠し底にミニCDがグラデーションで白から黒までの4枚隠されている。中身はインターナショナルなアプローチを施した笑もあるが、趣旨はアンビエント・音楽とも言われても仕方がないもので、左から右へ走る譜面に描かれることを求めない音楽であり、つまり音楽ではない。「SOUND OF THE ROOM」その名の通り、CDを鳴らすことで配置されることを求めない自由に配置される音である。

1997年に青山本店の comme des Garcons で限定100個販売された。定価1万円。記憶に不正がある場合はご容赦願いたい。



「ローリングストーンジャパン」の創刊、そして。


手伝う事になったのは、19歳で始めたDJBARに遊びに来ていた客の勤めていた会社の社長の息子から誘われたからだ。

彼は慶應ボーイ時代に空手で喧嘩して退学勘当されジョージアの大学に留学中に危ないコネクションで自信をつけ、アメリカのカウンターカルチャーマガジン「ローリングストーン」誌を始めたいから、レコード会社にツテのある私に手伝ってくれと言われたのが始まりです。日本の音楽雑誌は提灯記事ばっかりで「音楽評論で本当のことを書いてるのはローリングストーンだから日本版をやろう」ってね。

本当に権利が取れると思わなかったが、朝6時にNew Yorkから取れたとの連絡が入り、店を止めて始める事になった。21歳だった。実は植草甚一さんも同じ版権を狙っていて、こっちが版権を取ったから、結局向こうは「ワンダーランド」になったんだけどね。ロゴもそっくり真似してね。笑


日本版の創刊号が73年。でテイタム・オニールの「ペーパームーン」の封切りの時だった。私の好きだった映画だったことと、好感度を考え反対を押し切り表紙にしてもらった。で、なんの経験も無いから、毎日手当たり次第に足で広告営業するわけです。アメリカのカルチャー誌だからってジーンズの「LEE」とかに売り込みに行くんだけど、カッコイイ会社のイメージとは裏腹に会社はアメ横で、レイバンのグラサンの強面の担当者が出てきてね、「何?ローリングストーン ?ミックジャガーなら知ってるよ」って言われてさ。カウンターカルチャーって、そもそも自分でも説明出来ないし^_^、大手クライアントに行っても邪険にされて「帰れ帰れ」って門前払いされてね。でも諦めなかったのは、当時これしか俺の生きていく道はないんじゃないかなって思ってたから。始めた以上は止めれないってね。まさにがむしゃらだったかな、結局、成績も良かったから、責任も多くなるよね。



当然編集やりたかったけど、英語とかできないくせに何言ってんだって、全然関わらせてもらえなかった。勿論、自分がセールスするから、記事は毎回読むけど、翻訳って読みやすい日本語になかなかならないから結局何書かれてんだかよくわからないんだよね。このままでは続かないと危機感持ってました。そのうち編集部も二転三転して、労働組合的闘争もあって、編集長はいつも不在で、会社はバラバラでしたね。


自分が出来ることは売り上げをキープすることだから、必死でしたね。で、当時オーディオブームだったこともあり、その分野の代理店に相談したら、時間はかかるが、なんとかしようと気に入ってくれて、2年後くらいにようやくその分野とのタイアップが決まり、これから安心して発行出来ると、喜んだのも束の間、発行人が不祥事で捕まっちゃって、雑誌が廃刊になっちゃった。あの時は、本当に悔しかったんですね。最初の挫折です。


で、雑誌営業で知り合った「EDWIN」の応援で、店舗の選曲を依頼され、同じく雑誌時代に知り合った小林克也さんに声をかけてはじめた「ウルフマン・ジャック・ショー」のパロディのアイデアが「スネークマンショー」へと繋がっていくことに。

今思えば一生懸命やってると誰かが手を差し伸べてくれるんですよ。その時その時でね。



ー スタートして33年。「dictionary」の始まりついて教えてください。


最初はDJの会報誌だったからね。UFOの矢部がまだ大学生の頃に俺が声かけて、手伝ってもらうようになって87年に「クラブキング」がはじまった。


「dictionary」にたどり着くのは、DJという音楽へのアプローチをクラブカルチャーとして捉え、それを日本でどう伝えるか考えた時に、自分たちでメディアを持たないとどうにもならないと思ったんだよね。当たり前だけど、日本のメディアっていうのは売れてるものは扱うけれど、わからないもの、新しいものには、お墨付きがつかないと手を出さない。だから「クラブ・カルチャー始めます」と意気込んでも糠に釘で、そうそう、当時、憧れのタケ先生(菊池武夫)に報告に行って「タケ先生、これから日本発のクラブカルチャー発信します。応援してください。よろしくお願いします」って言ったら「桑原くん、言っとくけど、この国にカルチャーなんか育たないよ」って言われて。「ガーン」みたいな。でもだからこそタケ先生に「よくやった」と言われたくて頑張ったんだよね。「ローリングストーン」の経緯もあって、悔しい思いをしてたのがずっと残ってるんで、リベンジって気持ちもあったね。


でも儲からないんだよね。クラブカルチャー。海外からアーティスト呼んで、客が来るかって保証があるかって言えばないし、そういう会話が禁句な会社だったんだよ。そもそも俺がこういう性格だから、儲かるか儲からないかから始まらないんで、本当にこれはいい音楽なのか、本当にみんなに見せたいものなのか、そういう議論に集中しちゃって。「そこまで言うんならやるか」「それじゃ俺が銀行から金借りてくる」って。で、失敗すると言い出したやつから真っ先に辞めちゃったりするから、借金だけが残るっていうね、笑。で、借金だけがどんどん膨らんでいくと言う。だからやめたくてもやめられないっていう。



ー それでも「dictionary」をフリーペーパーで続けてこれているのがすごいですよね。


途中でどうしようかと思って「皆さんフリーを販売してもよろしいですか?」ってアンケートも取ったりしたんだけど。フリーを販売するのは商売を変える事だからね。それに雑誌を販売するとなると、取次店通さないと街に出ないわけじゃない。取次ってのは元は戦争時代の検閲システムだから、保守の根源で、利益率の高いものから順にやっていくことになるし。「ローリングストーン」の時も8万5千部刷って2万しか売れずに8割返本で身動もきできない。そんな苦い経験もあるし、しかも肝心のマーケティングする器量も自転車操業じゃ二の足踏むよね。ただ、ありがたいことに当時バブルもあったのか、今までやって来たことを知ってくれている人が助けてくれたっていうか、広告を出してくれてなんとか続いた。バブルの恩恵を自分では感じてないつもりでも、多少あったと思うね。


ー ホント綱渡りですね。


まあ、普通に考えたらいろんな準備をしてやるのが当たり前なんだと思うよ。ただ、どれだけ整理整頓して計画してもその通りに行くってことはないわけだし、そうしようと思ってキチっとしていったら、外れた時に気持ちが萎える、歪み合いが起こる、外れたことが成功への可能性をマイナスにする。だけどガチガチに決めてなかったら、ひとりひとりが自分の感覚でやって行かなくてはならないから緊張するよね。「今どっち向いてんですか」ってね。それの方が俺みたいなタイプにはいいかもしれない。勿論そういうの絶対無理って人もいるからさ。選べばイイんじゃない。


今回(京都に)もけつかっちんだったから、じっくり物件選んでる時間が無かった。内覧はしたけど、もっと修復をきちんとしてくれると、良い風に考え過ぎて、町屋がまさかこんなに寒いとは思わなかったみたいなね。笑。そういうところは相変わらずなんだよね。でもまあ、じゃあそこから何とか面白くしようって必死になるから。用意周到にするのもいいけど、辿り着くとこは一緒かもって気もするんだけどね。



freedom dictionary


ー 197号の表紙はジョニオ(高橋盾)さんですね。


その昔、中目黒のユル系の時代に、藤井郁弥のスタジオで、ジョニオとMasaaki のとんでもないジョイント展があって、その時初めてジョニオの作家としての強烈な才能を見せつけられた事を話してね。俺も、もう後がないから、未来に残せるディクショナリーを残したいんだと、熱く語ってしまって、もう、ファンの図々しさだよね。笑


そしたらジョニオが「俺がやれることは手描きしかない」ってなって、手描きなんですこれ。全部。彼も、途中で行き詰ったりして苦労したらしいけど、最後まで頑張ってくれた。かっこいいですよね、こんなのやらされてジョニオも後悔してるかもしれないけど、みんなが真剣にとり組んでくれたものがここにあるってことが大事だと思うんだよ。


その後、なんだかギルティな気分が抜けなくて、、それがね、偶然、平安神宮の参道で、バッタリ会って、立ち話ししたら、スッとして、嬉しくなった。

神さんのおかげかもしれへんな。笑



420 これは私からのメッセージです。 

死ぬ時ぐらい痛みから解放されて死にたい。

その自由だけは守りたい。

その為の 420



京都にいる、ということ。


2月10日に新しい号(#198)が出て、4月に出すのがイチから京都で作る最初の「freedom dictionary」になるね。京都に来てどう変わるか?それは自分にもわからない。俺が変われば「Freedom dictionary」自体も変わるだろうと思うし、ここで暮らすようになって感じているものが違うから。毎日歩いてるときに得られる刺激というのが、東京にいるときより何倍もあるから、次々と何か生まれるんじゃないかなと自分に期待している。部屋、寒いからね~。笑。寝てても顔から上は外だもん。どこから風入って来るんだって感じでね。京都にいても俺は基本、何も変わらないよ。ブラブラしてるし、なんかあったらメール頂戴よ。笑



2月10日に「freedom dictionary」最新号リリース。昨年から名称が「freedom dictionary」となり、フリーペーパーからサポーターの自由裁量で有料販売もできるシステムになっています。各号1冊分の本体価格+送料で、偶数月に2冊ずつの「freedom dictionary」が届きます。販売するもフリーで配るもサポーターの裁量で、とのこと。発行を止めない。発行をあきらめない「Freedom dictionary」からのメッセージ、サポートのお申し込みはこちらから。




桑原茂一「PIRATERADIO」


毎週金曜日よる23時に出航。

「CLUB STAY HOME」


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桑原茂一「PIRATERADIO」


毎週金曜日よる23時に出航。

「 Moss LOVE」


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桑原茂一「PIRATERADIO」


毎週金曜日よる23時に出航。

「 CANGES 」


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桑原茂一

くわはらもいち:選曲家、プロデューサー。1973年より、米国『ローリングストーン』日本版創刊メンバーとして運営。77年『スネークマンショー』をプロデュースしYMOと共演。同年より『コムデギャルソン』パリコレを中心にしたコレクションの音楽演出を担当。82年原宿に日本で初のクラブ『ピテカントロプス』をオープン。88年フリーペーパー『dictionary』を創刊。2010年、渋谷区神南にアートスクール、ディクショナリー倶楽部を開校。2015年よりフリーペーパーdictionary、interFM_PIRATERADIO、スペース/ディクショナリー倶楽部、これらを統合した「メディアクラブキング(WEB)」を株式会社桑原茂一事務所として運営。2020年末に京都に拠点を移す。


 


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