「Journal from the Cityは世界各国にいるChignitta contributersによる都市のレポート。」
今回は、2020年春に私たちが初めて直面したCOVID-19による「非常事態」の当時を、それぞれのシティから改めて振り返ります。
イタリア中部に位置するアブルッツォ州での暮らしをコロナ前から遡って綴ってくれたのは私の長年の友人である都市計画プランナー・保坂優子さん。知り合って以来、彼女のバランス感覚、知性、柔軟さ、食へのあくなき欲求に惚れっぱなしだ。日本各地での地域おこしに関わる彼女は、現場に拠点を構えコミュニティに入り込む現場主義。その姿勢の原点は、イタリアで鍛えられたのだろう。そんな愛してやまないイタリアに本格的に根を下ろした直後にコロナが始まった。(Junko Sasanuki)
保坂優子
都市計画コンサルタント。
アブルッツォ州での留学経験を経て、2002年から大阪とアブルッツォを行き来する生活を続けている。 2009年のラクイラ地震を機に州の紹介サイトABRUZZO PIÙを立ち上げる。関西を中心に都市計画コンサルタントとして地域のリブランディングに携わりながら、アブルッツォに関する講演やコラムの寄稿、現地コーディネートなどを行う。https://abruzzo.jp/
■ 私とイタリア、そしてコロナ禍の今
二十歳の時に初めてイタリアの地を踏んで以来、いつかイタリアで暮らしてみたいという夢を持った私は、大学を卒業後、3年間、都市計画事務所で働きながら資金を貯め、1年間留学する切符を手に入れた。
とにかく日本人のいないところでどっぷりイタリアの生活をしたかった私は、偶然知り合ったアブルッツォ州出身のイタリア人に勧められるまま、アブルッツォ留学を決めた。
「ローマから2〜3時間で行ける」「近くに買い物ができる街もある」と聞いていたアブルッツォ州のキエティという町は、完全な地方都市で、どちらかというと田舎だったし、自分が知るイタリアの華やかさもなかった。バス停に私と大きな荷物を残し、バスが砂埃を立てて去って行った記憶があるので、駅前のロータリーさえも当時は舗装されていなかった気がする。
一人暮らしをするつもりが、あまりに語学力が足りないからと、最初の3ヶ月は学校が斡旋してくれた家族と一緒に暮らした。いきなり見ず知らずの、言葉も話せないアジア人を受け入れ、丁寧に生活の術を教えてくれたホストファミリーにはとても感謝している。それでもどうしてもひとり暮らしがしたかった私は、その家族の助けも借りながら、ようやく小さな一軒家を改装したアパートでの生活をスタートさせることが出来た。
このアパートの大家さんだったのが、マリオとアンナ・マリア夫妻だった。マリオは、初めて私が家を見学に行った日に“あの子が気に入ったからあの子に家を貸す”と決めたらしく、以降、本当の娘のように優しく、時には厳しく大きな愛で私を包んでくれた。
大家さん夫婦は私が住むアパートの隣の一軒家に暮らしていた。既に年金生活をはじめていた彼らの生活はとても質素で、マリオは朝早く起きて自分で淹れたエスプレッソに小さじ四杯分の砂糖をたっぷり入れて飲み干してから畑に出るのが日課だった。広大な畑では家族や親戚のための野菜や豆、果物が育てられ、畑の隅では食べるための鶏やうさぎを飼っていた。10時頃に一度家に戻り、ソーセージやハムを挟んだパンをワインで流し込んで小腹を満たし、また畑に戻る。12時前になると手打ちパスタ店を営んでいたこともある妻のアンナ・マリアが慌ただしくパスタを打ち始める。マリオは1年365日、毎日トマトパスタが食べたいらしく、夏に作って保管しておいた自家製のトマトソースが欠かせない。お昼の準備が整うと、アンナ・マリアが窓から大きな声で「ご飯だよ」とマリオを呼ぶ。収穫した野菜や産みたての卵を持ってマリオが畑から戻ってきたら、お昼休みに工場から戻ってきた息子や孫たちと食卓を囲む。少し昼寝をしたらまた畑に戻り、夜はハムやチーズの簡単な食事を済ませて床につく。マリオが寝た後の一人の時間を、アンナ・マリアは大好きなテレビを見ながら繕いものやアイロンがけをして過ごす。
そんな彼らの日常の中に、私は迎え入れられた。食事ができるとマリオだけでなく、私にもお声が掛かる様になり、ベランダ越しに呼ばれたら、待ってましたとばかりに彼らの家にいそいそと出向き、マリオが食べるものと同じものを真似して食べた。満腹のお腹を抱え、そのままゴロゴロ過ごしていると彼らは私にいろんな話しをしてくれた。
マリオはいつも「自分は本当に幸せだ」と言い、「これ以上欲しい物がないし、この生活をできるだけ長く、可能なら120歳まで生きて味わいたいんだ」と語った。
それらの言葉は、日本にいる間、慌ただしくスケジュールをこなし、変化のある日々を好み、消費過多になっていた私の中にグングンと染み渡っていった。「足るを知る」という言葉があるが、ここいにいると、日本では欲しくてたまらなかったはずのキラキラしたものがなくても、自分が満たされていることを感じるのだ。
それと同時に、大学を卒業し、社会人になってからも生きる術の多くについて、知識も経験も欠いている自分に気付かされる。
■ そしてコロナがはじまった
1年のビザが切れ、アブルッツォを発つ頃には、自分には戻って来られる場所ができていた。間違いなく、だからこそ、私はその後もアブルッツォに通い続け、18年という歳月が経った今ではここが第二のふるさとだと胸を張って言うことが出来る。残念なことに120才まで生きると豪語していたマリオは、2年前、畑仕事をしている最中に心臓発作であっけなく亡くなった。突然残された家族は悲しみに暮れたが、本人は幸せな最後だったかもしれないと考えると少し慰められる。
そして、彼が亡くなる1年程前、私の前に現れたのが、今のパートナーであるエンニオだった。サラリーマンをしながらも、自分の庭で野菜を育て、動物を飼い、トマトソースやオリーブオイルを作っているエンニオとマリオたち家族はすぐに仲良くなった。初めてマリオにエンニオを紹介した夜、マリオは終始ご機嫌で嬉しそうだった。結果的にそれがマリオと会った最後もなってしまうのだが、あの夜があって良かったと心から思う。
エンニオと出会ってから、それまではせいぜい里帰り程度だったアブルッツォと大阪との2拠点生活が始まった。年末には自分の親も連れ、クリスマスと正月をアブルッツォで過ごし、2020年はさらにアブルッツォでの生活を整えるべく、車を買う計画やら家を改修する計画やらを立てはじめていた。
そんな時のコロナだった。
2月に帰国するときはまだ事態を甘く考えていて、4月にはまたすぐにアブルッツォに戻るつもりでいた。
ところが、3月にイタリアでまさかのパンデミックが発生し、あっという間にロックダウンの措置が取られた。あれよあれよと増えていく感染者数に訳も分からず空恐ろしさしかなかったのを覚えている。
アブルッツォ州は、イタリア中南部に位置するため、ロンバルディア州で見られた様な急激な感染者増は見られなかったものの、医療の充実という点では、他の地方都市と同様に盤石と言える状況ではなく、その中でいきなりコロナの前線に立って働くことになった医師や看護師をする友人の顔が浮かぶ。
■ andrà tutto bene(きっとうまくいく)
イタリアで取られた“ロックダウン”は日本の外出規制とは大きく違い、町の至るところに軍や警察が待機・巡回し、道行く人が何の目的でどこへ行くのか細かくチェックした。唯一営業を許可されたバールでは、客同志の立ち位置に印が付けらた。キスやハグが日常の挨拶で、おしゃべりが大好きな彼らから、それらの当たり前がごっそりと奪われた。
最も厳しく規制が張られた時期は、市町村をまたぐことさえ許されず、買い物に行くのにも規定の証明書に必要事項を記載し持参することが義務付けられ、違反すると高額の罰金が課せられた。
ちょうど復活祭と重なったこの時期、世界大戦の時でさえ中止にはならなかった数々の宗教行事や祭りも中止に追い込まれた。それでもつながりを求めたイタリアの人々は、同じ時間、それぞれの場所で同じ歌を歌い、楽器を奏でることで、心を通わせようとした。「andrà tutto bene(きっとうまくいく)」というメッセージが、ちょっと楽観主義的な彼ららしい励ましの合言葉となっていた。
そして、長くて暗い春のロックダウンを乗り切った時、イタリア人の底力を見た気がした。
エンニオは、ロックダウンの期間中、後回しにしていたロッキングチェアの修理をし、夏野菜を植え、それでも時間が余ったので庭に東屋を建てた。いつか私が戻って来た日に食べようと、収穫したトマトで私の好物であるトマトの煮込みソースをたくさん作って瓶詰めにしてくれたそうだ。こんな時、日々土に触れ、自らが口にするものを自らの手で作る人の強さを感じる。
アンナ・マリアは、マリオがいなくなってから止めてしまっていたトマトソースづくりを娘や孫と一緒に再開した。家族の時間が増え、これまで以上にお互いを労り合う様になったと言う。
“新型コロナウィルス”という言葉を毎日目にする様になってから、1年が経とうとしている。残念ながらこのウィルスは、未だに世界中で猛威を奮い、私達の日常を脅かし続けている。
封じ込めたと思ってもまた押し寄せるパンデミックの波にへこたれそうになるし、経済や医療などへの課題も重くのしかかる。
それでも、あの春のロックダウンを経験した後、「イタリア人は少し変わった様に思う」、と言ったエンニオの言葉はポジティブだった。「イタリア人は元来自分本位だと思っていたけれど、“コロナを収束させる”という共通の目的を持った今、ルールや他者、更には自然を今まで以上に尊重するようになったと思うんだ」、と。
それは、この局面を一緒に乗り越えるのだという気持ちの表れとは言えないか。そんなポジティブな変化を希望に、また彼の地で大切な人たちとハグする日まで、私は私で、毎日を大事に過ごしたい。
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